呼吸のステレオ
「……」
新一――コナンは、溜息をひとつ大袈裟に吐いて、読み差しの本を閉じた。
隣の布団で先刻からずっと寝付けない様子で右を向いたり左を向いたり転がったりしている輩がどうにも気になって仕方がない。
「……服部」
「何や、俺の事は気にせんとき。落ち着ける場所探しとるだけやさかい」
「俺が落ち着かないんだけど」
おまけにBGMは逆隣のオヤジのイビキだ。これで読書に集中できる程、自分の体調も良くは無い。 なにせ一件、事件を解決したばかりだ。
そんな事にも構わず、平次は今度は布団を引っ張って文句を付け出した。
「この布団薄くてなあ、どう転んでも身体痛いんや。おまけに肌寒いし」
「寒いのは自業自得な薄着のせいだろ。文句言うなら余所へ泊まれっての」
「せやなあ。この家スキマ風吹いとるの忘れとったし」
「んな寒いなら頭から被れば」
掴んだ布団の端を引っ張り上げて奴の頭に無造作に被せる。そのまま上半身を重し代わりに預けると、中からうめき声が聞こえた。
無視していると、布団の脇から手が伸びて来た。両脇からの手に易々と持ち上げられ、布団の真ん中辺りに転がされる。腕を掴まれたかと思えば、被せた筈の布団をもう片方の手が剥いで中から頭が現れた。
「人殺す気か！」
「……静かにしろって。早く寝るっていうから寝かせたのに」
「明日確実に起きれへん寝かし方すんなや。凍死以前に窒息死や」
「……ったく、主のおっちゃんが寝てるからって良く言う――」
ぴたりとＢＧＭが止まり、二人は口を噤んだ。
寝返りを打った主は、ベッドで反対を向いてしまったせいで顔が見えない。
色々言いながらも、平次は食事込みでタダで泊めてくれる場所を失いたくは無かったし、コナンはコナンで居候の自分までついでに叩き出される被害を受けたくはなかった。起こされて不機嫌になったオヤジに事務所で寝ろ、などと言われても困る。春とは言え、やはり夜分は冷えるのだ。
いつ目を覚ますか分からない主に聞こえないように、様子を伺いながら低く、浅く呼吸する。
（おっちゃん、まだ再開しないのか……いつもならまたすぐ大人しく――てか騒々しく、寝入るのに）
仕方ない、まだ少し動けないなと息を吐いて――気付いた。
呼吸が耳に聞こえている。
（――え）
まるで二重写しのようなタイミングで、低く、浅く。
自分のものと、自分でないものの、呼吸のステレオ。
顔を上げれば、真っ直ぐに自分を見ている、彼。
（何で――）
思わず開こうとした口が手で塞がれた。
声を出してはいけない。それは分かる、けれど。
鼻からの呼吸を変に意識したせいで心音が高く聞こえてしまう。
心音を意識しないように、呼吸を低く、浅く。吸って、吐いて。
けれどそれは彼の呼吸で。
掴まれたままの手首に心音がダイレクトに伝わっているかと思うと、今度は息苦しさを知覚してしまう。
悪循環だ。
しかしこれは何の循環なのだろう。
（おっちゃん……早く寝ろって――！）
とにかくそれだけを祈った。この膠着した状態から解放されるにはそれしかない。
普段なら煩しいだけのＢＧＭをここまで切望するとは自分でも有り得なかったけれど。
やがて一縷の望みの声が聞こえ、二人は薄氷が割れるように脱力した。
また止まらない内にと平次の腕から抜け出たコナンはすばやく電気を消し、暗がりの中自分の布団に横になった。
これでもう大丈夫だと安堵の息を吐く。すると、暗闇の向こうから心配そうな囁きが聞こえた。
「……オッサン病気と違うか？無呼吸なんちゃら言う」
「俺もちょっと心配になってきた……」
「せやな。今度止まったら起こしてみよ」
「いいけど――お前やれよ」
言うと、近くの暗闇から苦笑が聞こえた。
「俺工藤踏んづけそうやし。お、したら一緒寝ればええか」
「え、何が――っ」
暗闇から手が伸びてきて、掛け布団ごと引っ張られる。抵抗するとまた口を塞がれそうになって首を振った。
「しーっ、静かにせんとまた起きるで」
「だからってなあ……」
「やっぱあったかいなあ、自分」
嬉しそうに言われ、背から懐に押し付けられるように抱きしめられた。
「……懐炉代わりって訳」
「せやなあ。抱けばカイロの――」
「寝ろ」
斜めに振り返りついでに頬を引っ張ってやるとやっと静かになった。
「へいへい。……ほな、おやすみ」
「――ん」
奴が眠ったら自分の布団に戻ろう、そう思いながら背を預け、目を閉じる。
寝息が聞こえはじめた。胸郭も上下しているから、本当に寝入ったのだろう。
心音の響きを聞きながら、呼吸に呼吸を重ねて。
いつの間にか眠ってしまった。
end.