名前を呼んで


 

 

 うんざりした顔で、新一は太陽を見上げた。
 暑い、だけならまだ我慢できる。
 この身体にまとわりつく湿気。べたつく肌が只不快だ。
 息を吸おうとしただけで空気が喉に引っ掛かる。 呼吸を止めていられたらどんなに楽か。
「あーつーいー」
「しゃあないやろ、まだ梅雨やいうし」
 少し前を平然と歩いている平次に無性に苛ついて、背中を軽く殴った。
「……俺にあたったかてどないもならんやろ」
「お前、こんな天気でよく平気だよな」
「工藤こそ、普段やったらやせ我慢してるんと違うか?」
 確かに、幾ら暑さに当たっても新一であれば汗すら止めようと演技するだろう。場合によっては。
 けれど奴の言葉の意味するところに気付かない振りをして、もう一度背中を殴った。
「あーつーいーのは、あついんだよ!」
「それ禁止」
「……は?」
「今度『あつい』言うたら罰ゲームな」
「……分かった」
 ゲームは好きだ。
 どんなくだらないものでも集中すれば、この暑さも少しの間防げるだろう。
「で?罰ゲームって何すんだよ」
「名前を呼ぶこと」
「……なまえ」
「名字やなくて、名前な」
「ああ……」
 それだけかと新一は肩透かしを喰らった。コイツの事だからもっととんでもない提案を想像していたのだが。
 そんな表情を見て取られたらしい。
「なんや、平気な顔しとるけど」
「だって勝つ自信あるし」
「そんな言い切ると、足下掬われるで」
「どっちが」
「……ほんなら、家に着くまでが勝負や」
 新一が頷いたのがゲームの皮切りだった。
 たちまち二人とも、無言になる。
 喋らなければ、何も言わずに済むと黙ってとつとつと歩く。
 一番妥当な策であるのに、道のりがやたらと遠く感じるようになった。身体から汗がにじみ出る。
 このままでは埒があかないと誘導尋問に切り替えることにした。
「……本当、もう夏って感じだよな」
「せやなあ」
「お前、夏好きだろ」
「まあな。寒いのも好きやで。一年中同じ温度なぞ考えただけでも気色悪いわ――お前と違うて」
「俺は適温が良いだけなの」
「けどこんなんでへたるなんてアカンで」
「しゃあないだろ、あ――」
「……ん?どうした、工藤」
「……何でもない」
 危うく自滅しそうになって慌てた。やはりこの蒸し暑さがじわじわと効いている。
 笑みを深くした平次が、次はこちらの番だというように口を開いた。
「こんな天気やと、逆にガマン大会したくならん?」
「………」
「密閉した部屋で厚いカーテン閉めるねん。ほんでコタツの温度は強、ストーブがんがんに焚いて、厚手のシャツにセーターに防寒コート着て目の前には湯気の立った鍋物――」
 目眩がした。
 想像力が豊かだというのも考え物で、自分の中で不快指数が急上昇していくのが手に取るように分かる。
 頭で制止する前に口が叫んだ。
「――あーもう!あっついんだよ!」
「……俺の勝ちやな」
「狡い……」
「力押しでも勝ちは勝ちや」
 よっしゃ、とコブシを握る姿に絶え絶えだった息を怒りと吐いた。
「お前もだ」
「なにー?」
「ヒトを散々不快な目に遭わせて。お前も一緒に罰ゲームしなきゃ、納得できない」
「まあ、ええけど」
「……?」
 さらりと頷いた服部に、疑問が湧いた。
 その疑問はすぐ氷解した。
「ええよ。名前呼ぶんやろ、――新一?」
 これはひどく――こちらに不利な罰ゲームだ。
 提示された時にきちんと吟味しなかったのは自分の落ち度で、湿度のせいばかりには出来ない。
 けれど、だからといって――思考能力が低下しているこんな時に。
「新一」
 重ねて呼ばれる声に身をすくませる。
 耳元で意図して囁かれる言葉。それは果たして本当に自分の名前なのだろうか。
「シ・ン・イ・チ。ほれ、返事せえって」
「……何だよ」
 かろうじて身体を離し、二三歩前を歩く。
 急激に上がった身体の熱を持て余す。
「元はお前の罰ゲームやで?お前が俺の名前呼ばな成立せんやろ」
「だって」
「家に帰るまでやし、とっとと言うてまえ」
 からかう響きに立ち止まると、彼の顔を見据え息を大きく吸った。
「――平次」

「―――」
 言われた当人が、豆鉄砲を喰らったような顔をした。
「なにんな顔してんだよ。お前がとっとと言えっていうから言ったんだろ、平次」
 お返しだとばかりに、満面の笑みで名前を呼ぶ。
 途端平次は真っ赤になった顔を押さえ、もう片方の手で何かを追い出すように振った。
「あーもー、やっぱもう止めや」
「何だよ、自分から言い出したクセに」
「やっぱな、稀少価値ってモンがあるしな」
「減るのかよ」
「減る」
 大真面目な顔で言われれば黙るしかない。
「帰るで、工藤」
 手を出されて、握る。
 しとりとした触感に、彼も暑いのだと気付く。
 そしてそれが重ねた肌を連想させると、持て余した熱が外の熱と一気に同化した。
 そう思えばこの湿気も――悪くはない。
「帰ってるんだろ、今」
「せやけど何ぞもう、無性に帰りとうて」
「んな急がなくたって家は逃げねえって、平次?」
「やーかーらー、もう止め言うとるやろ!」
 心底困った声で叫ぶ平次に、陶然とした目を向ける。
 刹那、無言で抱きしめられた。

 

 

 

 


end.

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