悪心


 

 

 ――気持ち悪い。
 冷たい湿気のこもる白い壁に背中を押しつけられ新一は思う。
 薄暗い階段に澱む空気。窓はひとつもない。
 音だけが遠く遠くへ響いていく。
「――んだよ」
「ええから。静かにし」
 内緒話のように耳元で彼が呟き、耳を澄ませる。
 上の階の映画館からドアを開ける音は聞こえない。
 平日の昼下がりの銀幕に集う物好きも少なかったから、皆来た時のようにエレベーターで出口へと向かったのだろう。
 次々と人が吸い込まれてゆくエレベーターを横目に通り過ぎ、もう一往復待つよりは、と「非常口」とある緑のランプの下の扉をくぐり階段を降りていた。
 途中、感想でも話そうと口を開いて――
「……こんなトコでかよ」
「新鮮やろ」
 振り返ると彼に両肩を掴まれ壁まで押された。
 気持ち悪い。
 そういえば先刻触れていた階段の取っ手も静かに沈むような湿気の塊だったと思い出す。
 唇が軽く触れられた。軽く開けると舌が滑り込んでくる。
 背中からは重い冷気。彼からは烈しい熱。
 乱れる息で呼吸するのは澱んだ空気。
 響く音が鼓膜を、意識を震わせた。

 

 

 どこかで開いたドアの音に、接触が断ち切られる。
 唇を拭い、そのまま無言で出口まで降りた。
 重いドアを開ければ、一面の日光が降り注ぎ目を細める。
 降りてきた階段は存在しなかったような気がして思わず後ろを振り返った。
「んー……惜しかったなあ。もうちょいやっときたかったんやけど」
「服部」
「何や」

「気持ち悪い」
「……気持ち良すぎたんやな?」
「まあね」
「――」
「って言う訳ないだろ。俺が――」
「何や、ホンマに具合悪いんか?」
 軽口から一転して心配そうに見遣る彼の顔に諦め加減に向き直る。
「……もう治った」
「ほうか?」
「どっか用事あるんだろ。次そこ行くんだよな」
「ああ――そっち、やけど」
「そう」
 憮然とした表情をいつまで保てるか、注意を払って隣を歩く。
 裏返された快楽だとは決して悟られる事のないように。

 

 

 

 


end.

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