サイレントサイレン <silent siren>


 

<VI>

 

 部屋に入って、ようやく平次は伸びをした。
 何も無かったように呑気な声で。
「あー、ホンマ良く喰ったわ」
「お前、食欲有り過ぎ」
「ほかー?」
 怪訝そうに問うと呆れた声が返ってきた。
「電車の中でもあんな喰っておいて」
「お前が食細いんや。美味い空気の中でのメシは美味くてなあ……よ、っと」
「あ、おい!」
 ベッドに寝転ぶと非難の声が上がった。
 今日明日の寝所は既にジャンケンで決めている。生憎、ベッドの日は今日では無かった。
 座っているソファーを指して新一が言う。
「今日はお前、こっちだろ」
「ええやん、一休み位させてや」
「ったく。そのまま寝んなよ」
「分かっとるて」
「どうだか」
 不満げに横を向いた新一の視線が窓で止まった。
「……にしても外、真っ暗だな」
「せやな。暗いっちゅうか、黒いな」
「月も――見えないか。ここからじゃ」
 黒く塗りつぶされている空間から波音だけが微かに響く。 立ち上がり窓に歩み寄る新一を、平次は寝転びながら見ていた。
 カーテンを降ろした方がいい、とふと思った。枠の中の黒は近付くもの全てを吸い込むのではないか、と。
 しかし彼は吸い込まれず、再び顔を出して名前を呼んだ。
「服部」
「……ん」
「なあ、こっち来てみろよ」
「何ぞあったんかいな」
 手招きに応じて窓に近寄る。指差す先にはうっすらと人影らしきものが見えた。
「あそこ」
「――」
 おそらく海の側の崖近く。
 常盤木も頭を垂れていた場所。
 そこに、更陽子が一人佇んでいた。
 海を眺めているのか、こちらからは背中しか見えない。
「更陽子――ちゃんか? あれ?」
「お前もそう見えるか」
「ああ。確かに暗いけど、あの格好は彼女や。何しとるか分からんけど、こんな夜更けに危ないで」
「そうだな、行ってみよう」
 廊下は誰も居ないかのように静かだ。
 事情が分からないのに皆を起こして回るのも得策では無いだろう。
 なるべく音を立てず、こっそりと玄関に降りてゆくと窓際に立っていた白い人影が振り向いた。
 夜着をまとった亜麻子が気怠そうに髪を掻き上げる。
「どちらへ」
「えっと――その」
「ベッドの寝心地が悪くて眠れないかしら? 男性二人だとやはり狭いでしょう。申し訳ないけれど、我慢して下さい」
「それは大丈夫です。悠々と一人で眠りますから」
「一人で? あのベッドはセパレートすれば二人用にもなるのですが」
「……セパレート?」
「二つに分かれるんです。……ああ、私説明していませんでしたか」
「初耳です」
「それは失礼しました。シーツを上げれば、縦に二つに分かれますから」
「そうだったんですか」
「観察力不足やな」
「お前もだろ。……いいえ、亜麻子さん。貴女はどうして此処に」
「久し振りの我が家なものですから、なかなか眠れなくて」
「妹さんが心配なのですか」
 亜麻子は先刻までぼんやり外を見ていた。そしてその方角は更陽子の佇む場所だ。
 畳みかけるとあっさりと折れた。
「……ご覧になったのですね」
「窓から姿が見えました」
「更陽子、夜中になるとふらふら抜け出してあそこで歌を唄うんです」
「うた」
 それではあの後ろ姿は、歌を唄っているものなのか。
 何の歌を、あの場所で。
「ええ。あの子は声が出ないから聞こえないのですけれど。一度止めた事があるのですが、自分がそこに居る事を更陽子本人も覚えてないようで。ですから今はもう気の済むまで唄わせているのです。せめてここに居る間は」
「ここでだけなのですか」
「生まれた時から住んでいる家ですから」
「そうですか」
 相槌はそれだけの意味しかない。互いに分かっている事だった。
 下りた沈黙は長かった。
「――ねえ。約束は、信じる?」
 窓の外を見ていた亜麻子が不意に振り返った。
「俺?」
「ええ。服部さんに伺っているの」
 名前を呼ばれて平次は面食らった。それまで事務的な言葉の遣り取りしか無かった筈だ。
 けれど、今求めている答えが彼女の何かの役に立つのであればと言葉を慎重に選んで取り出す。
「そら、信じられるから約束するんと違いますか」
「信じる為の約束は? 信じさせる為の約束、というのもあるでしょう」
「約束した相手がどうであれ、自分が信じるモノやから約束が出来るし、自分は果たせると思うんや。俺は」
 平次が言い切るとそう、と亜麻子はわずか笑んだ。
「ありがとう」
「……別に何もしとらんけど」
「そうでも無いですわ――さ、もうお引き取り下さい。夜も遅いですし」
「貴女は」
「今夜は私の番ですから、更陽子が唄い終わるまでここに居ます」
「お姉さん、というよりお母さんの様ですね」
「――年が一回りも違うと、どうしてもそうなりますわ。母ももう居ませんし」
「更陽子さんの声が出ないのは先天性ですか」
「いいえ。おそらく精神的なモノです。三年前からですから」
「三年前というと、ご両親の」
「ええ」
「何の唄を」
「え」
「何の唄を、唄っているのですか。更陽子さんは」
「――私は」
 何の歌を。
 海に向かって。
「沈んだ父母への安らぎの唄だと思っています」
「子守歌、みたいなイメージやな」
「そうかもしれません」
 部屋に戻った二人はもう一度、窓から外を覗き込む。
 更陽子はやはり佇んでいた。
 ここからは変わらず背中しか見えないが、どのような歌にしろ雰囲気は余り良くなさそうに見えた。
 新一も同じ印象を受けたようでぽつりと呟いた。
「何だか、セイレーンみたいだな」
「……歌唄って船沈めるヤツか」
 船の汽笛が遠くに鳴った。

 

 海鳴りの中の一瞬の静寂。

 

 

 耳に響く、サイレントサイレン。

 

 

 

 


<VII>
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